バリアフリー・UDの行方について

きょう、某大学某学科で行ったレクチャーの録音を聞きながら帰宅。 ちょっと言葉が足りなかった。 反省。 以下、思考メモ。

いわゆる「ユニバーサルデザイン」というものが、今後どこへ向かうのかを考える。

バリアフリーを突き詰めていくと、諸制度は、人間の無自覚を許容する方向に進むと思われる。 となると、無自覚に日常を過してもよいということになる訳だが、果たして、本当にそれでよいのか。

人間が社会生活を営む以上、身の回りのすべての事柄について無自覚でいてよい筈はない。 無自覚が許容されるのは、何か特別な事情がある場合だけだろうと思われる。 その「特別な事情」に、すべての「障害」が含まれるとみるか、それとも「事情」の文脈を精査することになるか。 そこが分かれ目だ。 私は、文脈を抜きにしてバリアフリーはあり得ないと考える。 極端なことを言えば、「障害」よりも優先される事情は色々とあり得る。

各々の文脈を冷静に捉えられていないバリアフリーや「ユニバーサルデザイン」には、どこかに何かの「力」が加えられている可能性が大きい。 その「力」が公共性を害さないか、私はそのことが気がかりでいる。