2015年

6月

28日

解説スライド@ぱすてる学習会『当事者と家族 —— 「もうちょっとうまいやり方」へ』

2015年6月28日の「ぱすてる学習会」で、導入のための話題提供をしました。 そのときに用いたスライドをPDFに加工し、サーバーに保存しました。

20150628 ぱすてる学習会 スライド ver3.pdf
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2014年

11月

23日

解説スライド@ぱすてる学習会:「当事者の世界」と「家族」

2014年11月23日の「ぱすてる学習会」で、私からの問題提起として、短いお話をしました。 そのときに用いたスライドをPDFに加工し、サーバーに保存しました。

20141123 ぱすてる学習会 矢野 スライド.pdf
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2010年

9月

26日

先天色覚異常当事者の言説にみる当事者の社会的位相とその運動の変遷

2010年9月26日、障害学会の発表原稿です。

出典:障害学会『障害学会・第7回(駒場)大会 資料集』(東京)2010

大会プログラムのホームページから発表資料をダウンロードすることができます。

私は矢野喜正(やのよしまさ)と申します。 色覚異常の当事者団体の運営をしております。また、千葉大の大学院で制度研究をしております。 きょうの報告テーマは「先天色覚異常当事者の言説にみる当事者の社会的位相とその運動の変遷」です。 どうぞよろしくお願いいたします。

これより報告を始めます。 研究動機、当事者問題の歴史的変遷、当事者問題の行方、の順にご説明いたします。

まず、研究動機です。

はじめに、眼科学の基礎的な事柄について説明いたします。

色覚についての医学的な分類です。 人間の色覚は正常色覚と色覚異常に分かれ、色覚異常は先天と後天に分かれます。 そして先天色覚異常は、1色覚、2色覚、異常3色覚のみっつに分かれます。 昔の診断名では、それぞれ、全色盲、色盲、色弱と呼ばれていました。

医学では、先天色覚異常の形質を持った人のことを「先天色覚異常者」と呼びます。 一方、きょう用います「先天色覚異常当事者」という言葉は、先天色覚異常にまつわる諸問題の当事者を指しています。 この中には、先天色覚異常でない人々、たとえば遺伝的保因者なども含まれる可能性があるということです。

なお、当事者の中には「異常」という表現を好まない人が多いようです。 躊躇はありますけれども、きょうは学術的に正確な表現をということで、医学用語を使わせていただきます。

先天色覚異常は遺伝的要因によって発現する形質で、日本での発現頻度は、男性の4.50%、女性の0.156%です。 そのうちおよそ6割が異常3色覚者で、4割が2色覚者です。 1色覚者について確定的なデータはありませんが、1万人から5万人に一人程度であろうと言われています。 また、遺伝的保因者は女性のおよそ9%と推定されています。 したがいまして、先天色覚異常者が約290万人、遺伝的保因者が580万人と推計されます。

このように多くの当事者が存在するにもかかわらず、これまで、先天色覚異常にまつわる社会問題が大きく扱われることはありませんでした。 しかし、近年になって、いわゆるユニバーサルデザインと呼ばれる事業に積極的に関わろうとする当事者が現れ、マスメディアに取り上げられる機会も多くなり、状況が変わりつつあります。

私の研究動機はこの文脈の読解にあります。 そして今後、当事者をめぐる諸問題はどのような方向に向かうのか、もし軌道修正が必要であるならば、当事者らはどのような方向を見据えるべきなのかを考察します。 そして本報告が、現代の日本社会における「障害」ないし「障害者」を読解するための素材の一部となることを希望するものです。 みなさまのご研究との差異を相対的に捉えながらお聞きいただければと存じます。

続いて、当事者問題の歴史的変遷です。

先天色覚異常にまつわる社会問題が、近年になるまで大きく取り上げられなかった理由には、おもに、次の4点が考えられます。

1)先天色覚異常は感覚器の比較的軽度な先天的インペアメントであるため、色覚検査を受けない限り、周囲からの指摘がほとんどありません。 ですので、インペアメントの自覚を持ちにくいという特徴があります。

2)色彩の扱いについていくらか経験を積みますと、困難に直面する機会がかなり減ります。 したがいまして、状況に適応する努力を行えば、個々の当事者にとっては大きな問題でなくなるという側面があります。 たとえば私は2色覚者ですが、美術大学を出て、デザインの仕事をしています。 まったく自慢できることではありませんけれども、それなりの状況適応が可能だということの証明にはなろうかと思います。

3)現在においても、就職や資格取得などに欠格条項が設けられ、当事者たちは不利益を実感しています。 そのために、インペアメントを隠し、不利を回避しようとする傾向があります。 実際のところ、インペアメントが外見に現れないため、慎重に生活していれば周囲に気づかれることはありません。 こういったことが、問題の存在そのものを隠蔽することに繋がっていったと考えられます。

4)日本には、遺伝に対して潔癖すぎるとも言える、感情的な傾向があるようです。 遺伝的保因者は、世間から誤解を受け、婚姻や出産などの際に大きな緊張を強いられ、精神的苦痛を実感してきました。 そうした苦痛を少しでも和らげたいと願う自然な感情がはたらいて、問題の意識的な忘却が行われたという側面があります。

この中で、とくに難しいのが4つ目の問題であろうと、私は考えます。 この遺伝の問題は、当事者の位相を読み解くにあたって、忘れてはならない視点であろうと思います。

以上のような背景がありつつも、先ほど述べましたように、近年になりまして、社会状況が転換を迎えています。 続いて、歴史的経緯を大まかに追うことといたします。

19世紀後半に、ヨーロッパ各地で、乗務員の色覚異常が原因であろうと考えられる列車や船舶の事故が重なります。 それを契機に、各国で乗務員の色覚検査が規定されていき、日本でも1879年から、鉄道員と船員を対象とした色覚検査が始められました。 日露戦争後には、陸軍、海軍ともに、色覚異常者の採用制限を始めます。 このようにして、近代日本においては、特定の職種の人材選定を目的として、スクリーニングが制度化されていきました。 当時の記録には、当事者の悲嘆の声が残っています。 戦争で活躍できないということにアイデンティティの喪失を感じたのだと考えられます。

昭和初期より、効果のない「治療法」がいくつも生み出されては消えていきました。 アジア太平洋戦争敗戦後、さらに怪しい「治療法」の発明が活発になります。 たとえば、1960年代には、こめかみに電気刺激をあてることによって色覚異常が「治る」と騙った高額な装置が売り出され、それを購入してしまう当事者が続出し、大問題となりました。 また、同様の原理を用いた「クリニック」が各地に開設され、90年代前半頃まで、詐欺行為が続いていました。 現在でも、「治療」を騙った鍼灸院がわずかに報告されていますし、色覚異常が「矯正できる」と騙ったメガネが高額で販売されています。 こういった詐欺行為の効果がクリニックや、あるいは装置やメガネの製造元らによって検証される際には、「治った」と訴える当事者の声が意図的に引用されるわけですが、そういった主観的な言説が多くの眼科医から疑われ、当事者の言葉は信用を失っていくこととなりました。

そのような状況にあって、「治療」「矯正」の真贋を見極めようと、医学に寄り添う決心を固めた当事者たちが現れます。 この当事者たちは、80年代から組織化を始め、眼科医らの援護を受けて、社会適応の方策を探り始めました。 しかし、運動体としての性格は強くなく、当事者のアイデンティティの構築を共同作業として行う、といった様相をもっています。

追って90年代から目立ちはじめた当事者の主張は、進学、就職、資格取得などの機会制限に対する異議申し立てでした。 この当事者らは団体を組織し、運動を始めますが、その論拠は、先天色覚異常者自身による「日常生活に不便を感じていない」という言説にありました。 この運動は、一定の成果を出しつつも、迷走を始めます。 色覚にまつわる制度のすべてを「差別」であるとして世に訴えはじめるわけですが、その矛先は医学に対しても向けられ、たとえば「色覚異常という言葉を使ってはならない」、「色覚異常という診断を下してはならない」、「精度の高い検査器具を使用してはならない」、「色覚検査そのものをこの世からなくすべきである」などと訴える当事者が現れました。 これを受けて眼科学は、「日常に不便を感じていない」という主張を疑い、当事者に対する信用度を下げていきました。

2000年以降になりますと、反対に、「日常的に困難を感じる」と語って、先天色覚異常者を福祉サービスの対象として取り入れるよう要求する当事者が現れました。 いわゆるユニバーサルデザインと呼ばれる動向への相乗りを狙ったものです。 この運動を率いる当事者らは、社会状況の転換を待ち切れず、自らソーシャルビジネスをはじめます。 そうなりますと、営利を求める都合から、どうしても、インペアメントを誇張して語る傾向になっていきます。 また、営業成果の顕在化を図るため、独自の造語の使用を営業先に要求し、認証マークの添付なども要求し始めました。 この運動での、インペアメントの誇張と医学用語の否定は、眼科医の側にあった不信感をさらに募らせることとなりました。

いま述べましたような経緯をふまえ、当事者運動の位相の整理を試みます。 私は、当事者運動の類型を、時代的経緯に合わせて、みっつに分類しました。 社会適応型、欠格条項撤廃要求型、情報保証訴求型です。 余談ですが、私は情報保証のショウの字を「ゴンベンに正しい」の「証」の字にしています。 情報保証は Information Assurance の翻訳語ですので、そうした方が相応しいと考えるためです。 話を戻しまして、以下に、それぞれの類型の特徴を述べます。

社会適応型運動の当事者属性は、先天色覚異常者、遺伝的保因者、その家族です。 医学的思考を基本に据えつつ、客観的な自己認識を試みようとしています。 あまりインペアメントを顕示しようとはせず、制度要求もそれほど激しくはありません。 色覚検査や欠格条項に対しては、科学的根拠がはっきりしている場合に限って、容認の態度をとるケースがあります。 営利性は低く、旧来のいわゆるボランティア活動の姿に近いものがあります。

欠格条項撤廃要求型運動の当事者属性は、先天色覚異常者に限定されており、中でも、比較的軽度のインペアメントをもつ者が多いようです。 医学的思考に対する抵抗感は大きく、インペアメントの自覚や顕示性は低いように見受けられます。 制度要求は欠格条項の問題に集約され、色覚検査は欠格条項存続の手段とみなして、実施反対の態度をとっています。 行動力があり、いわゆる一点突破型運動と呼ばれるものに近い様子があります。

情報保証訴求型運動の当事者属性も先天色覚異常者に限定されていますが、比較的強度のインペアメントをもつ者が多いようです。 このタイプの運動にまつわる言説を拾いますと、一見、合理的思考を持っているようにも見えるのですが、医学用語を一切認めないといったことなどから、医学的思考に対する抵抗感が大きいことが読み取れます。 また、インペアメントの顕示性は非常に高いのですが、誇張が見られるため、自覚の程度はよくわかりません。 制度要求は情報保証の問題に集約され、非常に行動力があります。 営利性がとても強く、新自由主義的な指向をもっているようにも見受けられます。

以上のように類型化した上で、相違点の整理を試み、今後の当事者問題の行方を考察してみたいと思います。

いま述べましたみっつの類型は、それぞれに矛盾点はありますけれども、当事者自身の視点からみれば、身体感覚と感情の置き場所を重ね合わせようという点で一致しています。 先ほど、インペアメントの自覚が難しいというところに問題の特徴があると述べました通り、当事者の抱える感情や意識は、身体感覚と分離した状態が出発点となっているわけです。 そこで、肉体と精神を、分離された状態から統合された状態へとシフトしたいという動機が共有されているようにみえます。

そこで、肉体と精神を統合させようというときに何を指向するかという点で、当事者運動の方向性が分かれていきます。 中でも、欠格条項タイプと情報保証タイプの主張は、明らかに矛盾しています。 欠格条項タイプは「生活上の不都合はない」と言い、情報保証タイプは「生活上の不便が多い」と言うわけです。 両者とも、身体感覚の個人差や、当事者の多様性についてはあまり触れず、主観的な身体感覚だけを拠り所にして語ろうとする傾向がみえます。 もっとも、主観的に捉えなければやっていけないほど、当事者が苦痛を感じているのだと考えることもできます。

このようにして、欠格条項タイプや情報保証タイプの当事者は、医学的な思考を受け容れられないまま運動を続けてきました。 それぞれの立場に立って言えば、眼科学は当事者の役に立たない学問であるということになるでしょう。 しかし私は、当事者と医学が良好な関係を構築した方がよいのではないかと考えます。 このことが、今後の課題のひとつになると思います。

しかし、当事者が医学を学べばよいという話では終わりません。 医学が当事者の方向を向いていないという問題が残っています。 これについて、社会適応タイプの当事者は、たとえば、眼科学会などの場に出て、医学の側に対して当事者像の修正を求めつつ、自身のインペアメントと向き合おうとしていますし、眼科医たちも当事者の意見に耳を傾けようという努力を始めています。 このように、当事者と医学とが対話を続けていくことが今後ますます重要になっていくであろうと思います。

最後にもうひとつ課題を挙げます。 これまで、欠格条項タイプや情報保証タイプの運動は、遺伝的保因者の立場を念頭においてきた様子があまりありません。 たとえば、情報保証タイプの運動では、私企業に対して、商品に「認証マーク」を貼るよう求めているわけですが、この「認証マーク」を遺伝的保因者たちが目にして、大きく傷ついているという実態があります。 また、お舅さんやお姑さんがお嫁さんを罵る、ですとか、先天色覚異常者が遺伝的保因者である親を恨む、ほとんどの場合は息子が母親を、ということになりますが、そういった肉親に対する怨恨が当事者の言説に現れ、この問題を一層深刻にする要因となってきました。 こういったことから、当事者の枠組みを確認し直す必要があるのではないかと私は考えます。 遺伝的保因者たちは、家庭内で孤立し、日々不安を抱えながら暮らしています。 このことを大きな社会問題であると捉え、当事者の全体像を再構築することが重要な課題になろうと考えております。

以上で報告を終わります。ご清聴どうもありがとうございました。

 

 

 

 

2010年

8月

27日

いわゆる「色覚異常シミュレーション」の罪

私は、ネット上の魑魅魍魎にはまったく興味がありません。けれども、風評資料の一種として、色覚異常に関するいくつかの言葉を自動検索アラートに設定し、一応収集しています。そこに、2ちゃんねるの某スレッドが引っかかっていました。それは、いわゆる「先天色覚異常のシミュレーション」と呼ばれる画像を見て嘲笑うスレッドでした。ニュース速報板なので、現在はもうそのスレッドはありません。

先天色覚異常のシミュレーション画像をつくろうとした研究者の中に、KS 先生という、電子工学で著名な方がいらっしゃいます。模擬実験を始められたのが1970年代といいますから、おそらく、日本では最も古い時期にこのジャンルの研究に着手された方だと思います。深見嘉一郎先生と親しく、共同でご研究をなさっていたこともありました。

KS 先生は、もちろん、視覚にまつわるシミュレーション画像というものには人間の「知覚」が反映されていないということを十分にご理解された上でご研究をなさっていました。その先生が、あるときを境に、画像を一般に公開しないようになります。当時はまだ、インターネットどころか、パーソナルコンピュータも普及してない時代でしたから、学会内で慎重に気を使いつつ発表している限り、画像が公に流出することはありませんでした。

KS 先生がシミュレーション画像を公開されなくなったのは、画像が誤解を呼ぶ可能性が大きいと判断したためです。そしてその誤解によって、多くの当事者たちが傷つくということをご心配されたためです。もちろん当事者とは、先天色覚異常を抱える者だけでなく、その近親者など関係する人々のすべてです。KS 先生は、多くの人を傷つけるであろうことをお気づきになり、研究成果の公表を自重されたのでした。

インターネットが普及し、Vischeckなどの簡易なツールが公開されるようになり、KS 先生のご憂慮は現実のものとなってしまいました。そうした状況で、先述したような2ちゃんねるのスレッドが発生した訳です。

Vischeckに限らず、Photoshopのプラグインや、バリアントールという名のメガネなど、先天色覚異常のシミュレーションを実現したと広告宣伝しているツールが、実際に出回っています。しかしこれらは、人間の知覚を反映したものではなく、シミュレーションとしては不完全なものです。こういったものを自信ありげに広告することは、絶対に慎むべきです。さらに、このようなものによって誤解が広まることは、絶対に避けなければなりません。

こういった、一般の人々に偏見を与えるツールは、当事者に対する不当な評価を植え付ける要因となります。仮にツールの開発者が「善意」をもっていたとしても、結果的には「差別」の誘因となってしまいます。

 

シミュレーション技術への称賛は、当事者に対する人権侵害と一対になっています。このことを冷静に考える必要があると、私は思います。

 

2009年

5月

01日

連載「ケアをめぐる交話(クロストーク)」『看護学雑誌』

広井良典, 『ケア学』の新地平 広井良典のケアをめぐる交話(クロストーク), 看護学雑誌, 2004-01〜2005-01

 

【第4回】ケアと遺伝医療 高田史男

 

私は長年、先天色覚異常にまつわる問題と向き合い、市民活動を行ってきた。私がスタッフの一人として運営してきた「色覚問題研究グループぱすてる」という 市民団体では、色覚異常に関する電話相談窓口を週2回開設し、およそ20年になる。回答者は当番制で、私も担当する。まれに一日中まったく電話が鳴らない 日もあるが、平均して日に2〜3本、多い日は5〜6本ほどの相談や問い合わせを受ける。

 

先天色覚異常は遺伝法則によって引き継がれるインペアメントで、持ち込まれる相談のほとんどが遺伝にまつわる内容である。つまり電話を受けている私の立場は、この高田氏の言う「遺伝カウンセラー」なのである。ここで氏によって提供された話題は、私がいままでの経験と若干の知識によって身につけたものとほとんど同様の感覚で、まさに我が意を得たりという心境であり、まったく違和感がない。しかし私に欠落していた点がひとつあった。保険制度の問題である。


いままで私は、次のように考えていた。------ 先天色覚異常者にはいくらかの社会的制約がある。制約に出会ってから自身の身体を自覚するようでは遅いので、なるべく早く知り、対策を立てておいた方がよい。「知らされないでいる権利 (註)」を行使すると、当然、責任の負えない問題が発生する。知らないのだから本人に責任はない。だから、もし自己責任を負いながら自分の意志で生きていきたいと思うのであれば「知る権利」を行使するべきである。一方、「知らされない方がよい」という選択をするのであれば、少しは無責任でいられることになり、精神的に気楽になる部分が発生する。------ 私はここに保険の問題が絡むとまで、思いをめぐらせていなかった。


保険については早急に制度を変える必要があろうが、現実的なことを考えると、制度の再構築を待ってはいられない。あした電話をかけてくるかもしれない相談者に対して、私はどのように回答するべきか。考えているうちにあれこれ逡巡したが、やはり、一般的には「知る権利」を行使したほうがよいだろうと思い至った。そのほうが、自己責任を負える分だけ、人生における有効な選択肢が増えることになるからである。他方、「知らされないでいる」ことを「選択」すると、その後の重要な責任を放棄し、その分だけ自己決定権を失うことになってしまうかもしれない。「選択」の時点で意志が働いているのであるから、権利が縮小されてもやむを得ない(そうはいっても「知らされないでいる」ことが精神的な安定を得るために必要な選択であろうことは間違いない)。

 

なお、私が付け加えたいと思う点がひとつある。高田氏は、遺伝情報を抱え、インペアメントを抱えるであろう当事者本人に対する「知らされないでいる権利」についてのみ語っているが、その周囲の人々(親族や内縁者など)に対してはどうなのだろう。私は以前から次のように考えてきた。------(とくに養育義務を持つ)親は、子の身体・精神状態に対する「知っておく義務」があるのではないか。親が「知っておく義務」を怠ると、子が将来手に入れることのできる「選択する権利」が縮小されるのではないか。------ この考え方が正しいのかどうか自信はないのであるが、現時点ではこのように考えている。

 

この考え方を用いると、保険制度の再構築に関する糸口が掴める。一般に保険契約は個人と保険会社が二者間で結ぶものであるが、これを、複数の個人と保険会社との三者間契約を許可するよう制度を改編するのである。つまり、「知らされないでいる権利」をもつ個人と「知っておく義務」をもつ個人が連帯責任を負い、保険会社と契約する。そして、「知らされないでいる権利をもつ個人」と「知っておく義務をもつ個人」との間の、遺伝認識におけるズレについてだけは、不問に附す。そうすると保険金の受取人の問題(悪用対策)が残るが、紙面が足りないのでここで思考停止することにし、後日あらためて再考したい。


(註)高田氏の語る「知らないでいる権利」は「知」を放棄する権利を指していると思われるが、自発的/内在的な「知」まで権利放棄することはできないと私は考えるため、「知らされないでいる権利」と呼び換えた。

【第1回】ケアとトランスパーソナル心理学 諸富祥彦

 

上に書いた電話相談と関連するが、「クライエント自身の意識のありよう」と「セラピスト自身の意識のありよう」の関係について言及している部分に共感があった。当たり前だが、私の側に相談を受け入れるだけの精神的・時間的余裕がないと、カウンセリングは成立しないし、ケアにならない。いままでも、私のような素人がセラピスト/カウンセラーの真似事をしていてよいのかという自問があったが、これからも同様に悩み続けることになろう。今後深く勉強したいところである。

以上、連載のすべての回を通して、思うところがたくさんあった。規定字数では書ききれないため今回はこれで締め、別の機会にあらためたい。

 

2009-05-01 地域福祉論(広井良典 先生)

2004年

3月

09日

電話相談日誌

午前中、小学校入学直前の息子さんを持つお母さんからお電話がありました。「以前より、息子の言動が気になっていた。インターネットで調べていて、いろいろな事例に目を通すうち、息子が色弱であることを確信した。これからどうしたらよいのか」というご相談でした。

このお母さんは、息子さんのようすを注意深くご覧になっています。たとえば⋯

   学芸会で使った動物(着ぐるみ?)の舌を「ミドリ」と呼ぶ
   先生が着ていた深緑色のセーターを「グレー」と呼ぶ
   木の葉は緑色だと教えたら幹まで「ミドリ」で塗る
   大理石タイルを遊び歩きしながら「ミドリのところだけ踏む!」と言う

⋯などです。 

ふつうの人は「こんな極端な間違いを見逃す親はいないだろう」とお考えかも知れませんが、意外にも、こういったことを見落として育ててしまう親は多いのです。実際、「成人して就職の際に検査するまで自身の異常に気付かず、周囲からも指摘されなかった」という方も、かなり多くいらっしゃいます。

ですので、このご相談のお母さんは、なかなか子育てをしっかりがんばっていらっしゃる方なのだろうとお見受けします。こういう方のご家庭の場合は、精神的にはだいたい大丈夫。知ってしまったいま、すこし動揺していらっしゃるかもしれませんが、落ち着きを取り戻せば、きっと大丈夫。

ちなみに、「昨年11月の就学前検診で色覚の検査はなかった」と、おっしゃいます。そうなのです。近年は、あまり実施されていないのです。検査してイケナイわけではないのですが(この、検査関係のおはなしについては、また後日)。

閑話休題。

まずさしあたって重要なのが、小学校への対応です。まず担任の先生に事情を言って、配慮をしてもらうようお願いしておくのがいいでしょう。といいますのは、小学校低学年の場合、まだ語彙が少ないので、色の名前で指示することが多いからです。板書の色使いにも、トラブルはつきものです。

低学年ですと、教科書や教材にもたくさんの色が使われています。これも、まだ語彙が少ない、というのが理由です(中高学年になると字と図版が増え、色使いだけでなにかを指示させるような表記は減ります)。教材が配られたら、ざっと色の確認をしましょう。私の母は、磁石つきのちいさなオハジキひとつひとつに「アカ」「アオ」「ミドリ」「キイロ」と、手書きのシールを貼りました。が、そこまでやらなくてもいいんじゃないか、とも思います。子どもさんと「これはアカ!」とかやって、遊びながらでいいんじゃないでしょうか。

色がわからないからって、叱っちゃダメですよ。しょうがないんです、まだちいさいから。もうすこしおおきくなったら知恵がつきますので、気にしないで。この方の息子さんはポケモンが好きで、なのにお絵描きしても「よくわかんないから」といって色を塗らないのだそうです。子どもにとってお絵描きは楽しいもの。せっかくのチャンスですので、まず子どもさんの好きなキャラから、ちょっとずつ塗り絵しましょうよ。あわてないで、ひとつずつ、楽しみながら。

同じお母さんからもうひとつ、「息子に色弱だということを教えるのはいつがいいですか?」というご質問。これはとても難しいですね。考え方はふたつ、両極端なやりかたがあると思います。

(A)ひとつめは、子どもさんが自分で気付くまで教えない、というやりかた。色の間違いをしたときだけはちゃんと教えて、それが異常だとか遺伝だとか特定の進路はダメだとか、そういうのは一切教えないで放っておく。その方がノビノビ育つから。

(B)ちいさいうちから「あなたは色の見え方がほかのひとと違うのよ」とわからせて、すこしずつ色使いの工夫を覚えさせていく。将来の夢を具体的に語るようになったら、資格制限や職業適性などのこともすこしずつ教えていく。そのほうが失敗がすくないから。

これらの両方ともにデメリットがあります。(A)は、色間違いや人間関係の失敗が多くなり、子ども自身が恥をかき、色使いの経験不足に陥りやすくなり、進路決定が遅れる。(B)は、色に対する自信がなくなり、ときには思慮深くなり過ぎ、自分を責めてしまうこともあり得る。

どちらがいいのか? それは、家庭ごとに方法が違っていて、それでよろしいんじゃないでしょうか。

私の親がとった方針は(B)で、それが私には得だったと感じています。たしかに一時的に自信はなくなりますが、それを乗り越えてしまうと、色を扱うのがとても楽しい。自分にわからない配色に出会った時でさえ、「あれ、これ○○色なの? そりゃすごいねー!」という感じで、けっこう喜んで、ついはしゃいでしまいます。そしてその結果、いま、色を扱う仕事に就いているわけです。まぁ、私みたいなのは例外だといわれれば、たしかに、それまで。

ところで、ウチは(A)タイプだといって、親は知らん顔でいいのか?というと、私はそうは思いません。

子どもの体のことを詳しく知っておくのは、親として最低限の義務なのではないでしょうか。例えば、「予備知識なくいろいろ食べさせていたらひどいアレルギー体質になってしまった」というのと、「赤ちゃんのうちにアレルギー傾向を調べて気を使っていたから大きな問題を起こさなかった」というのと、どちらが親として優れているのか。

大人になってから自身の色覚異常を知り、「なんでウチの親は隠していたんだ!」と問いつめられてしまうと、親御さんとしては苦しいところです。色の間違いをタブーにせず、それも家族共有の話題の一部だと思って、楽しくコミュニケーションしていったらいかがでしょうか。(所要1時間)